2016年07月23日

あるADDっ子の高校選び

あくまでも一つの例として、私の姪っ子の高校選びについて記事にしたいと思います。

今、個人懇談の時期で、特に中学3年生のお子さんをお持ちの方は、進路についてかなりシビアなお話をされている方も多いかと思います。

ADDで不注意の特性が強い子の場合、提出物が出せなかったり遅れたりするために、内申点が非常に悪くなる傾向があります。

私の姪っ子は、中学では非常に欠席が多く、特に3年生の頃は週の初めはほとんど行けず、木曜、金曜あたりに行けることはあっても、登校は遅れがち。当然ながらノートは揃わず、小テストなども受けられず、課題も出せずで、内申評価も非常に低かったそうです。

姪は、のび太ほど徹底的に提出物を出していなかったわけではないらしく、内申はのび太よりはありましたが、地域の中では荒れ気味の普通科の高校か、私学の女子高か、農業系の高校を勧められたようです。

姪はアニメやイラストが好きで、ちょっとマニアックなところがあります。しかし、小中学校時代はいじめられたりはしていなかったそうです。

母親である私の妹も、いじめの対象にはならないタイプでした。

ちょっと癒し系の大人しい不思議っ子、という感じでマスコットのように扱われていたようです。

ただ、姪は女子高は嫌だというのははっきりしていたようです。

妹は姪の進路として普通科か農業系か迷っていたようでした。

農業系の高校はカリキュラムが独特で、どうしても実習時間の割合が高いです。

のび太の高校の場合は、英語などはもう一度中学の基礎からやり直してくださっているような内容で、指定校推薦などではなく、一般入試で中堅大学以上に行こうと思えば、早めの受験対策が必要かもしれません。(塾や予備校。自分のペースで受験対策ができる子はそれでいいと思いますが、要するに高校にそこまでの学力をつけてもらうのは厳しかったという意味です。もちろんすべての農業系の高校がそうだということではありません。不安な方は説明会等でよく確認してくださいね)

姪が大学に行きたがっていることもあり、やはり普通科のほうがいいかもと迷っていたようでした。

姪っ子はイラストなど非常に精密な絵を何も見ないで描くことができます。

私は彼女が専門的な進路に進むなら、芸術系だろうと思っていました。のび太のように植物が好きなどとは聞いたことがなかったからです。

農業系の学校には、前向きに興味と目的意識を持って入学する生徒もいれば、成績的に「ここしかないと言われたからしかたなく」入学する生徒もいます。

後者の生徒の中には、進路変更して退学する生徒も一定数います。

実習が多いですから、それを休むとレポートも出せません。一度悪循環に入ると、いいきっかけがないとなかなか難しいようです。

姪っ子はその「興味」や「目的意識」の点で大丈夫なのか、大学に関してよりもそちらの方が気になりました。

しかし、たまたま以前、同じ集合住宅に住んでいて、姪っ子が慕っていた3つ上のお姉ちゃんが、その農業系の高校に当時通っており、その子が「楽しいよ!」と言ってくれていたこともあり、オープンスクールに参加した姪っ子は、この高校に行きたい、と思えたようです。

妹も一緒にオープンスクールに行って学校の内容を知り、通っている生徒さんたちの様子を見て、とてもいい印象を持ったそうです。

それなら、きっと大丈夫!

私は大賛成し、農業系の学校の良さを大いに語りました。

「のび太も楽しく学校に通えたし、大学もそれを伸ばしていきいきやっているよ。○○高校はすっごくいい学校だよ。おばさん、大賛成!楽しみだね!」

世間的な評価は必ずしも高くないし、当時彼女の祖母である私の母は少し複雑な反応だったようですが、私はこれから進学しようという高校に誇りを持ってほしかったのです。

ここから、中学にも通えるようになり、勉強にもやる気が・・・となかなか簡単にはいかないのがADDっ子です。

結局、中学校の出席状況は最後まで「五月雨」で、妹も「こんなので高校行ってもすぐに出席日数で進級できなくなって退学するんじゃないか」と不安だったと言っていました。

さて、今

姪っ子は先日の祖母の亡くなった当日と翌日以外、休むことなく元気に通えています。

農業系・音楽系・芸術系のクラブに入って、ゆるく放課後ライフも含めて楽しんでいるようです。

彼女が話す高校の良さについては長くなるので次回書かせていただきますね。

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posted by みずき at 22:43| Comment(0) | 支援方法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

最近ののび太

母のことが続きましたが、ここから私と息子たちの凸凹生活に戻っていきますね。

相変わらずシングルタスクの私は、母の具合が悪くなって以降は息子たちのことは完全放置。
そのほうが結果的に良かったのか、特にこれといったこともなく二人は大学・高校生活をこなしています。

のび太は自分の好きな分野の研究に関する国家資格を取るために、苦手な授業(高校で基礎すら学んでいない物理とか)も含めて頑張っています。

もちろん大学のみでその資格は取れず、おそらく院に進むことになりそうです。

ただ、その資格があれば、のび太に向いた仕事につけるようなので、何とか脱落せずに頑張ってほしいと願っています。

レポートなども以前なら直前にやっつけ仕事のようにしていたのが、今はそれなりに計画を立てて進めていっています。まあ、それくらいしないと仕上がらないくらいの内容のようです。

もう私にはさっぱりついていけないようなレベルです。

彼の大学には多いようなのですが、とにかくどこに寄るわけでもなく、授業が終われば家にまっすぐ帰ってきます。それでもだいたい7時、8時くらい。

アルバイトは大学で1回生のお手伝いをする、というものをしているくらいです。

友達はそこそこいるみたい。時々は話題に上ります。派手な学生はほとんどおらず、全体的にのび太に似た感じです。これはオープンキャンパスでも感じていました。

休みの日は一日家で過ごします。「学生らしくない」といえば、まさにそうなんですが、私もきっとこんなのだっただろうな。家で一人で好きなことをして過ごすのが何よりなんです。

中学生だったころののび太と私は本当に険悪でした。

反抗期というよりも、私の無理解が原因だったと思います。

大きなターニングポイントは発達検査を受けたことでした。

そこから進路選択までに迷いは多々ありましたが、検査結果から、普通科ではなく専門性のある学科に進んだことがのび太の場合はよかったと思います。

次回は中学校で不登校を続けていた姪っ子が今楽しく高校生活を送れていることを書きたいと思います。

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posted by みずき at 12:07| Comment(7) | のび太の大学生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月29日

取り返しのつかない先送り

前回の記事の4日後の朝、母は亡くなりました。

前日の夜、二男のyouの中間考査が終わり、お弁当作りが始まるため、それまで1週間病院に泊まっていたのですが、一度家に戻り、たまった家事などをしてから来ても大丈夫かと看護師さんに訊いてみました。

「楽観視はできませんが、一応小康状態になりましたので、もう泊まらなくても大丈夫だと思いますよ。長丁場なので、家族さんの健康やご家庭のことも大切ですから、明日からはお見舞い時間に顔を出していただくだけで十分だと思います。」とのお言葉でした。

お言葉に甘えて久しぶりに布団で眠り、朝お弁当を作って家族を送り出したあと、車を飛ばして母のもとへ行ったのですが、明らかに昨日よりも「落ちている」感じがしました。

時折、呼吸困難になり、目を大きく見開いたり、下顎呼吸に近いような様子が見えます。

妹の負担を軽減するため、二人で交互に見舞うことにしていたのですが、妹にも急きょ来てもらうようにしました。

医師にも「明日までもたないかもしれない」と言われ、親せきや母の友人、病院の隣のお世話になった老人ホームのケアマネさんにも連絡を取りました。

結局、その夜は妹も私も母に寄り添い、好きな歌をタブレットで流しながら歌いました。

テレサ・テンやダ・カーポ、美空ひばりや石川さゆりの歌など、母の十八番を妹と二人で歌いました。

目は閉じたまま、酸素マスクをした母は、もちろん歌うことはできませんでしたが、私たちが歌うと様々な数値が少しましになりました。

母は家族への執着が非常に強く、それがかえって「家族が面会に来ると痛み発作が出る」ということにつながっていました。

「さっきまで調子よかったんだけどね」

自分が行くと調子が悪くなると言われるのですから、私も次第に母のところに行くのが苦痛になっていたのが正直なところでした。

行った時が調子のよい時間帯であれば尚更、調子が悪くならないようにとそそくさと「じゃあ、お父さんの病院に行ってくるよ」と理由をつけて引き上げていました。

母は私たち以外の職員さんや友人たちとは、CDをかけて一緒によく歌っていたようです。

先日、接し方を変えて母が最後まで機嫌よく過ごしてくれたその日、私は一緒に歌うために「唱歌ベスト」というCDをamazonで申し込みました。

これから、一緒に母と楽しい時間を過ごせるという確信が持てたからです。

でも、前回の記事通り、遅すぎました。

病院にはCDデッキを持ち込む暇もなく、結局このCDは母が亡くなった後、お世話になった施設にお譲りしました。

正直、父のほうは今でもいつ何があっても不思議でない状況です。

しかし、母はまだまだ「死」には遠いと思っていました。

亡くなる前日に家に戻ってしまったこと、仕方がないと思いつつも後悔しています。

まだまだ大丈夫だと思って伝えようと思っていたこと、やってあげようと思っていたことをずっと先送りにしていました。

「お母さん、ありがとう」
「お母さんは私たちの誇りだよ」
「苦労したね。がんばってきたね」
「お母さんの子供で良かったよ」
「産んでくれてありがとう」

意識の亡くなった母に、最期の呼吸が終わった後もずっと呼びかけ続けました。

母に届いたでしょうか。

今はまだまだ心の整理がつきません。

でも、亡くなる半日前くらいからは痛み発作はなく、何十年かぶりに熟睡しているように見えました。

顔中に刻まれた苦悩の皺もだんだん薄くなり、どんどん若返っていくようで、妹と驚きながら見ていました。

医学的にこのようなことがあるのでしょうか。

亡くなる1時間ほど前は皺がすっかりなくなり、すうすうと子供のような表情で眠っていました。

次第に呼吸の感覚が長くなり、止まったかと思うと私たちの呼びかけで戻り、を繰り返し、結局あくる朝の6時45分、完全に呼吸が止まりました。

文字通り、眠るような最期でした。

母への思いは複雑でした。

「私の母はジャイアンだったのかもしれない」



でもやはり喪失感は大きくあります。

私は小さいころ、母にあまりに執着しすぎて、母が死ぬことに異常におびえていた時期がありました。

夜中に起きだして、母が呼吸をしているか確認することが高校生くらいまで続いていました。

最期に見せてくれた昔の大好きだった頃の母にもう一度会えたこと、それこそが母が最後にくれた愛だったのだと思っています。

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posted by みずき at 10:44| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする