2016年07月12日

最近ののび太

母のことが続きましたが、ここから私と息子たちの凸凹生活に戻っていきますね。

相変わらずシングルタスクの私は、母の具合が悪くなって以降は息子たちのことは完全放置。
そのほうが結果的に良かったのか、特にこれといったこともなく二人は大学・高校生活をこなしています。

のび太は自分の好きな分野の研究に関する国家資格を取るために、苦手な授業(高校で基礎すら学んでいない物理とか)も含めて頑張っています。

もちろん大学のみでその資格は取れず、おそらく院に進むことになりそうです。

ただ、その資格があれば、のび太に向いた仕事につけるようなので、何とか脱落せずに頑張ってほしいと願っています。

レポートなども以前なら直前にやっつけ仕事のようにしていたのが、今はそれなりに計画を立てて進めていっています。まあ、それくらいしないと仕上がらないくらいの内容のようです。

もう私にはさっぱりついていけないようなレベルです。

彼の大学には多いようなのですが、とにかくどこに寄るわけでもなく、授業が終われば家にまっすぐ帰ってきます。それでもだいたい7時、8時くらい。

アルバイトは大学で1回生のお手伝いをする、というものをしているくらいです。

友達はそこそこいるみたい。時々は話題に上ります。派手な学生はほとんどおらず、全体的にのび太に似た感じです。これはオープンキャンパスでも感じていました。

休みの日は一日家で過ごします。「学生らしくない」といえば、まさにそうなんですが、私もきっとこんなのだっただろうな。家で一人で好きなことをして過ごすのが何よりなんです。

中学生だったころののび太と私は本当に険悪でした。

反抗期というよりも、私の無理解が原因だったと思います。

大きなターニングポイントは発達検査を受けたことでした。

そこから進路選択までに迷いは多々ありましたが、検査結果から、普通科ではなく専門性のある学科に進んだことがのび太の場合はよかったと思います。

次回は中学校で不登校を続けていた姪っ子が今楽しく高校生活を送れていることを書きたいと思います。

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posted by みずき at 12:07| Comment(7) | のび太の大学生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月29日

取り返しのつかない先送り

前回の記事の4日後の朝、母は亡くなりました。

前日の夜、二男のyouの中間考査が終わり、お弁当作りが始まるため、それまで1週間病院に泊まっていたのですが、一度家に戻り、たまった家事などをしてから来ても大丈夫かと看護師さんに訊いてみました。

「楽観視はできませんが、一応小康状態になりましたので、もう泊まらなくても大丈夫だと思いますよ。長丁場なので、家族さんの健康やご家庭のことも大切ですから、明日からはお見舞い時間に顔を出していただくだけで十分だと思います。」とのお言葉でした。

お言葉に甘えて久しぶりに布団で眠り、朝お弁当を作って家族を送り出したあと、車を飛ばして母のもとへ行ったのですが、明らかに昨日よりも「落ちている」感じがしました。

時折、呼吸困難になり、目を大きく見開いたり、下顎呼吸に近いような様子が見えます。

妹の負担を軽減するため、二人で交互に見舞うことにしていたのですが、妹にも急きょ来てもらうようにしました。

医師にも「明日までもたないかもしれない」と言われ、親せきや母の友人、病院の隣のお世話になった老人ホームのケアマネさんにも連絡を取りました。

結局、その夜は妹も私も母に寄り添い、好きな歌をタブレットで流しながら歌いました。

テレサ・テンやダ・カーポ、美空ひばりや石川さゆりの歌など、母の十八番を妹と二人で歌いました。

目は閉じたまま、酸素マスクをした母は、もちろん歌うことはできませんでしたが、私たちが歌うと様々な数値が少しましになりました。

母は家族への執着が非常に強く、それがかえって「家族が面会に来ると痛み発作が出る」ということにつながっていました。

「さっきまで調子よかったんだけどね」

自分が行くと調子が悪くなると言われるのですから、私も次第に母のところに行くのが苦痛になっていたのが正直なところでした。

行った時が調子のよい時間帯であれば尚更、調子が悪くならないようにとそそくさと「じゃあ、お父さんの病院に行ってくるよ」と理由をつけて引き上げていました。

母は私たち以外の職員さんや友人たちとは、CDをかけて一緒によく歌っていたようです。

先日、接し方を変えて母が最後まで機嫌よく過ごしてくれたその日、私は一緒に歌うために「唱歌ベスト」というCDをamazonで申し込みました。

これから、一緒に母と楽しい時間を過ごせるという確信が持てたからです。

でも、前回の記事通り、遅すぎました。

病院にはCDデッキを持ち込む暇もなく、結局このCDは母が亡くなった後、お世話になった施設にお譲りしました。

正直、父のほうは今でもいつ何があっても不思議でない状況です。

しかし、母はまだまだ「死」には遠いと思っていました。

亡くなる前日に家に戻ってしまったこと、仕方がないと思いつつも後悔しています。

まだまだ大丈夫だと思って伝えようと思っていたこと、やってあげようと思っていたことをずっと先送りにしていました。

「お母さん、ありがとう」
「お母さんは私たちの誇りだよ」
「苦労したね。がんばってきたね」
「お母さんの子供で良かったよ」
「産んでくれてありがとう」

意識の亡くなった母に、最期の呼吸が終わった後もずっと呼びかけ続けました。

母に届いたでしょうか。

今はまだまだ心の整理がつきません。

でも、亡くなる半日前くらいからは痛み発作はなく、何十年かぶりに熟睡しているように見えました。

顔中に刻まれた苦悩の皺もだんだん薄くなり、どんどん若返っていくようで、妹と驚きながら見ていました。

医学的にこのようなことがあるのでしょうか。

亡くなる1時間ほど前は皺がすっかりなくなり、すうすうと子供のような表情で眠っていました。

次第に呼吸の感覚が長くなり、止まったかと思うと私たちの呼びかけで戻り、を繰り返し、結局あくる朝の6時45分、完全に呼吸が止まりました。

文字通り、眠るような最期でした。

母への思いは複雑でした。

「私の母はジャイアンだったのかもしれない」



でもやはり喪失感は大きくあります。

私は小さいころ、母にあまりに執着しすぎて、母が死ぬことに異常におびえていた時期がありました。

夜中に起きだして、母が呼吸をしているか確認することが高校生くらいまで続いていました。

最期に見せてくれた昔の大好きだった頃の母にもう一度会えたこと、それこそが母が最後にくれた愛だったのだと思っています。

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posted by みずき at 10:44| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月27日

もっと早く気づけばよかった

今、母の隣でこの記事を書いています。

前回の記事を書いた直後から、未だに原因不明なのですが母の高熱が続き、入院になりました。

入院前からほぼ意識がなくなり、会話は成り立たなくなりました。

5月の連休中に一旦退院し、病院の横の老人ホームに戻ったのですが、戻ってからも私の行った時間帯が運悪く意識のはっきりしない時で、やはり朦朧としていました。

半月もしないうちにまたも高熱が下がらず入院。前回は肺は綺麗だったのですが、今回は真っ白。

いろんな検査をしても原因がわかりません。

5日前から病院に泊まり込んでいます。

のび太もyouも私が教師をしていた頃、病気の時には面倒を見てもらっていました。

今から思うと大変だったと思います。

それがわかっているのか、二人とも驚くほど協力的に家事や犬の世話などやってくれています。

時々は「おばあちゃん、どう?」とメールもくれます。

最後に会話らしい会話ができたのが、前回書いた「批判せず、プラスイメージの言葉を使う」「内容が幻視などのことになったら、自然に話題を楽しい方に変える」を初めて本気で実践した時でした。

人の親のことなら冷静になれるはずが、自分の親になるとムキになって「間違いを理解させよう」と躍起になっていましたが、それを一切やめたら、本当に母が穏やかに、楽しそうにしてくれたのです。

痛み発作も起きず、私が父のところに行くために帰るその時まで、にこやかでいてくれました。

私自身もいつもなら帰りは疲労困憊で運転しているのに、疲れを全く感じず「次は何を話そうか」と楽しみになるほどでした。

「どうしてもっと早くからこうしなかったのか。これからこうやって楽しい時間を積み重ねていこう」と心から反省しました。

しかし、その日から2日ほどで話せなくなってしまったのです。

何度も死を意識する瞬間があります。
もっともっと、伝えたいことがある。
快復を祈りつつ、耳元で伝えたかったことを伝え続けています。

ただただ苦しげに唸っている母に届いてくれることを信じて。

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posted by みずき at 11:24| Comment(0) | 脳にイイコト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする