2023年08月13日

働くってどんなこと?

私は正直、仕事っていうのはある程度自分の興味ある分野で、多少得意なことを活かしてやれれば御の字で、基本は「我慢と忍耐」で、そのご褒美としてもらえるのが賃金だという感覚でした。

大学を卒業して就いた仕事は私立中高等学校の専任教諭で、これは小さい頃から希望していた仕事ではあったけれど、朝7時過ぎに家を出て、座る間もなく(お昼もろくに座らずにパンをつまんでいました)学校の守衛さんのいる大きな門が閉まる10時までめいっぱい仕事をしても、あくる日の授業準備や小テストの採点などは持ち帰りで、睡眠4時間くらいで働いていました。

授業をするのは好きだったけれど、後から思えば生徒指導やら保護者対応など、自分の予測できない事柄に対応するのが致命的に苦手で、仕事を始めて3年でストレスのために親指大の大腸ポリープができたくらいでした。

でも、自分にできることはこれくらいだと思っていたし、お給料がやたらと良かったので「仕事ってこんなもん」だと耐えて18年間働きました。

結局、両親のレビー小体型認知症の発症で40歳で退職したのですが、仕事は「耐えて苦しんだ代償にお給料をもらう」という意識はずっと残っていました。

長男の小学校入学時に退職したのですが、そういう考えですから、息子たちには「これくらいのことができないと、社会で仕事をやっていくことができない」というのが常に頭にありました。

「宿題は、嫌なことでも耐えて締め切りまでに提出するための訓練」だと思っていたので、宿題の提出ができないのび太は将来困る、という気持ちで、それはそれは厳しく叱ってきました。

人づきあいも、私自身実は一人でいることが大好きなのですが「社会に出るなら嫌な人とも我慢して接することができるようにしなくては」「協調性がなくてはやっていけない」と、一人で過ごしがちな息子たちに無理やり人付き合いをさせようともしてきました。

とにかく、「好きなことばかりやっていて、仕事になるはずがない」「仕事は苦難と我慢の連続」という意識で子育てをしてきました。

言葉の端々にそういう考えが出ていたと思います。

友だち付き合いすら「そういう社会に出ていくための訓練」というニュアンスで伝えていたのではないかと思います。

結局、「〇〇しないと将来やっていけないよ」「社会の落伍者になるよ」というメッセージを発し続けていたのではないかと思います。

そう考えると、のび太が今、ドラッグストアの店長をやれているのは奇跡としか思えません。

母親の呪いのような言葉から脱して、楽しく仕事ができているのは、適当に話を聞き流し、マイペースに生きるのび太の性格が幸いしたと思います。

反対に、生真面目で、母親の話をすべて受け止めるゆずひこには、悪影響しか及ぼさなかったと思います。

これをまず変えていこうと思いました。



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2023年08月07日

全く手のかからない子だったゆずひこ

ゆずひこは全く手のかからない子どもでした。

赤ちゃんの頃から寝かしつけに苦労することもなく、病気もほとんどせず、勉強はあまりできませんでしたが「授業はいつもしっかり聞いているし、宿題も提出物もきちんと出しています」「どんなことにも真面目に取り組みます」「友達に優しく、目立たない仕事にも頑張って取り組みます」とどの担任の先生からも認められていました。

当然、叱られることもなかったでしょう。

朝は起きずに遅刻寸前に家を出たり、毎週のように担任の先生から「提出物が出ていません」と電話がかかってくる長男の「のび太」と両親の介護関係で奔走していた私にとって、ゆずひこが全く手のかからない子であることは救いでした。

実際、赤ちゃんの頃から思い返してみても、ゆずひこを叱った記憶がほとんどありません。

それをいいことに、私は子育てに関してはのび太にかかりっきりでした。

朝は起こすところから、朝食、学校への準備、忘れ物がないかのチェック、家を出るところまで、声を掛け続けなければいけなかったのび太。

いらいらして怒鳴り声をあげることは数知れずありました。

敏感なゆずひこは、私のそのような怒声やいらいらした表情が怖くて仕方なかったのでしょう。

彼の「手のかからない子」ぶりは、「母親からのび太のように怒鳴られたくない」という表れだったと今なら思います。

友だち関係も、ゆずひこ自身はあまり望んでいなかったようですが、周囲からは声を掛けてもらい、たまには遊びに行ったり(明らかに嫌々という感じでしたが)しており、その点でも心配していませんでした。ゆずひこは家で飼っている柴犬と過ごす方がずっと良かったと思います。

いろんな刺激にくたびれ果て、家に戻ればもうパワーは切れていたでしょう。かわいがっている柴犬(今も生きています)をなでて抱っこして、充電したかったのだと思います。

一方のび太は超マイペースなので、友だちから誘われても軽く断り、飼っている虫やメダカを飽きずながめたり、植物の種を取りに行って集めたり、近所の大きな公園の浅い池でヌマエビを採ったり、柴犬と遊んだりと好きに一人で遊んでいました。

これも今思うと素敵な過ごし方なのですが、当時のび太の将来にひどく悲観していた私は、遅まきながら小学校5年生で、本人が全く興味もなく望んでもいなかった「少年野球チーム」に有無を言わさず入れてしまったのでした。

のび太にとってはとんだ災難だったでしょう。彼の自由な楽しみの時間は、全く興味のない野球にとってかわられ、「チーム競技」という最も苦手なものをせっかくの休みの日に早朝から夕方までさせられることになったのですから。

それでも文句ひとつ言わず、ほぼ休むことなく2年間頑張ったのび太に、私は土下座したいほど申し訳なく思っています。子ども時代の貴重な時間を奪ってしまった。取り返しのつかないことをしてしまいました。

ただ、監督やコーチの方たち、チームメイトにはなぜかとても大切にしてもらい、最後までレギュラーになることもなかったのび太のために、引退試合まで別にセッティングしていただきました。

私も両親のことで奔走しつつも、土日は野球の当番でいろんなお母さんとも話したり、他の子どもたちとも交流ができ、素晴らしい経験ではあったのです。

のび太は昔から周囲の人にはとても好かれる子でした。場合によってはいじめの対象になりそうな「ちょっと変わった不思議くん」でしたが、有名ないじめっ子すら、のび太には優しくしてくれました。

私に似て運動音痴(脳と体の連絡がうまくいっていない)だったため、全く技能的には伸びなかったのに、監督やコーチもとても辛抱強く、優しく指導し、のび太のいいところをみんなに伝えたり、時には虫の知識について聞いて下さったりと本当に有難かったです。

しかし、この「のび太の少年野球」のために、この間、土日のゆずひこは「ほったらかし(放置)」になってしまいました。

ゆずひこは小さなころから野球には全く興味はなく、サッカーの好きな子でした。

自分がすることについては、家の庭でサッカーボールを蹴ったりする程度でしたが、海外も含め試合をテレビで録画して観たり、パソコンなどでゲームをしたりしていました。

ゆずひこに地域のサッカーチームに入りたくないかを念のためきいてみました。

でも、正直、私はゆずひこがサッカーチームに入ったら、保護者として、のび太の少年野球と両立できるとは思えませんでした。野球だけでもいっぱいいっぱいだったからです。

一切口には出しませんでしたが、敏感なゆずひこは感じ取っていたのでしょう。

「いや、自分がプレーする方には興味ないから」

私は本音ではほっとしていたと思います。地域のサッカーチームの保護者には、かなり派手で上下関係のはっきりした(ボスと取り巻きのいる)メンバーが占めていて、とても苦手意識があったこともあります。(昔からそういう女子グループが大の苦手でした)

そして、私はこのゆずひこのことばを免罪符に、土日は両親のこと以外はのび太の少年野球のことで動き回っていました。

つまりはゆずひこを放置していたのです。

それまでは柴犬を連れて年に何度か言っていたキャンプや旅行にも行けなくなってしまいました。

夫も悪気はありませんが、超マイペース人間なので、ゆずひこを連れて山にでも行ってくれるなんてこともありませんでした。

ゆずひこもまだ小学校3,4年生。孤独でつまらなかったに違いありません。

そして母親の関心が明らかに兄に向いているという思いもあったでしょう。

私がゆずひこなら、絶対そう思っていた、それだけの状況がありました。

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2023年08月06日

人生観が変わった

この何年かで私の中のものの考え方が大きく変化しました。

きっかけは「新型コロナ騒動」です。

過集中するタイプの私は、両親のレビー関連についてもそうでしたが、寝食を忘れるほどの莫大な時間をかけて様々な情報を集め、本や論文を読み漁り、認知症関連で接したどの医師にも驚かれ、お薬などの判断もこちらに判断を任していただけるようになりました。(しかし、もうその頃にはうちの両親は手遅れでしたが)

これは別に私が特殊であるということではなく、患者本人や介護者は、その病気について徹底的に調べ、治す方法がないかと死に物狂いで調べるので「たくさんの病気の中の一つ」「どの薬を処方するかを決めるだけ」という程度にしか病を捉えない医師とは真剣度が違うからなのです。

もちろん、世の中の大多数の人は「病気は医師に治してもらうもの」という認識だと思います。

素人判断で病気を捉えるととんでもないことになる。医師に任さないで勝手なことをしたら、もう二度と診てもらえなくなる。

医学部って大学でも偏差値も学費も一番高い、世の中で一番賢い人のなる職業なんだから、彼ら「専門家」に任せないと。

しかし、その結果とんでもないことになった私は、医学に対しても少し異なった考え方を持っていました。

ここをあまり詳しく書くと、拒否感を持つ方もいらっしゃると思うので割愛しますが、この「新型コロナ騒動」で、私はまた世の中の見方が大きく変わりました。

そして、今のように(今も既に怪しくなってはいますが)自由にものを言ったり、好きな場所に移動したり、好きなものを買ったり、食べたり、ということができる時間は、もうそんなに長くはないなと思うようになりました。

少し前まで悩んでいたことは、今から思えば贅沢なことだったと思っています。

例えば、私の場合なら「このままゆずひこが家にこもってずっと生きていたら、8050問題(80代の親が50代の子どもの面倒を見る)になる」なんてことです。

「いや、それってかなり深刻な悩みでは?」と思われる方も多いでしょう。

でも私はもっともっとレベルの違う悲観的な未来を予想しています。この予想は外れてほしいと心から思っています。

私は、例のごとく過集中してこの3年間、いろいろなことを調べてきました。

「反ワク」とか「陰謀論」とかいうレベルの話ではありません。

私には支持政党はありません。無宗教ですし、一切の思想等の関わる団体に属していません。

誰かを崇拝している、全面的に信じているということもありません。全くの一匹狼です。

何の縛りも成約もない立場で、様々なものの見方を分析してきました。もちろん、何度も修正を繰り返しながら。

その結果、自分にできることは「今を楽しんで生きる」というこの一点が残りました。

「将来に向けて今は辛いことをしながら備える」というのがずっと自分の生き方の根底にありましたが、もう「辛いこと」をしている時間がもったいない、と思っています。

そう考えると、今の状態のゆずひこを無理に社会に出す必要があるだろうか、と思い始めたのです。

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posted by みずき at 20:46| Comment(0) | HSPゆずひこの就職活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年07月30日

私の両親から学んだこと〜精神に関わる薬について〜A

両親のレビー小体型認知症(父は違ったかもしれませんが)の家族会で、腸内環境を整えるサプリメントを使って、ほとんど全員の方の症状が驚くほど改善された話を以前書きました。(腸内環境の改善で困り感が改善される

ゆずひこのような感覚過敏は「セロトニン不足」(うつ症状・睡眠障害にもつながる)と言われます。レビー小体型認知症に多いパーキンソン症状は「ドーパミン不足」(体の動きが油の切れたロボットのようになる。やる気が起きない、などの状態を引き起こす)と言われます。
かといって、セロトニンやドーパミンが多ければいいというわけではありません。

介護者が非常に困る「過剰な自己顕示欲(自分を注目して、世話をすることを求める。ナースコールを頻回押すなど)」は「セロトニン過剰」、「幻聴」や「妄想」に悩まされることの多い「統合失調症」は「ドーパミン過剰」と言われます。

これらの神経伝達物質は腸でほとんどが作られ、バランスをとるのも腸だと言われます。

この中には記憶などに関わる「アセチルコリン」(アルツハイマーの人が不足している。短期記憶に関わる)

今話題の「免疫」も「ストレス耐性」や「迷走神経系」(ゆずひこが弱いところ)も腸内環境に大きく作用されます。

自閉傾向の人に多い「オキシトシン」の不足も、やはり腸内環境の影響が大きいとの文献があります。

「考える『腸』と『脳』:その不思議なメカニズム」


こう考えると、認知症にしろ、発達障害と言われる症状にしろ、まずはお薬より先に「腸内環境を整える」ことが重要だとわかります。

あらゆる人工的な薬には「副作用」があり、量や種類が増えるほど、症状は多岐に及び、またその症状を抑えるためのお薬を飲む・・・という悪循環になります。

うちの両親はそれに気づいた時には時すでに遅く、様々な症状で入院しており、腸内環境のことは相談しましたが、聞き入れてもらうことは難しく、結局お薬を減らす方向で対応するくらいしかできませんでした。

レビー小体型認知症介護家族の方々は、在宅介護の方が多かったので、すぐに腸内環境を整えるサプリメントを利用し、驚くほどの症状の軽減が見られ、これを発表した認知症学会でも大変話題になりました。(腸内環境の改善にはサプリメント以外の方法もいろいろあります。食事や温熱療法、ツボや腸もみ、体操など、検索すればいろいろあります)

我が家では、小麦・乳製品を減らしただけで、のび太もゆずひこもまずお腹の調子が良くなり、トイレにこもることがなくなりました。それまではそれぞれが30分くらいトイレにこもっていたので、一か所しかトイレのない我が家は大変でした。

この頃から、のび太はめきめきとそれまでできなかったことができるようになりました。具体的には提出物が出せるようになり、遅刻しそうになることも減りました。

ゆずひこもトイレにこもることだけは格段に減りました。

「レシチン」(最初は大豆レシチン→今はひまわりレシチン)と乳酸菌のサプリメントで、本人も実感できるほど「予期不安」が減りました。

両親の件に加え、こういう効果があったので、ゆずひこと話し合い、就労支援に必要な診断書をもらうために精神科に通うのはやめることにしました。

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2023年07月22日

私の両親から学んだこと〜精神に関わる薬について〜@

ブログにこれまで何度か書いてきましたが、今から約20年前、両親が同時期に身体的・精神的にきつい状態になり、母はパーキンソン症状(手足のこわばり、震え、焦燥感、被害妄想、すり足、痛み、幻視、ひどい便秘)、父は手足のこわばり、震え、尿失禁、体に力が入らない、全く動けないなどの症状が次々現れ、10年以上の闘病の末、最期は二人ともほぼ寝たきりになり、亡くなりました。母の方が先に肺炎で亡くなり、父はその5年後に入院していた病院で急に血圧が下がり、亡くなりました。

当時、なぜ二人がほぼ同時にこのような難病になってしまったのか、全くわかりませんでした。

両親は(今から思えば添加物たっぷりの出汁を使ったりと誤ったこともいろいろしていましたが)健康には人一倍気を遣っており、食事も野菜・魚中心で品数も多く、お酒やたばこもやらず、父が定年になって以降は毎朝ウォーキングにいそしむ夫婦でした。

ちょっと気になることがあれば、あくる日には病院に行って診てもらう、かかりつけの医師にはお中元・お歳暮も欠かさない、西洋医学信者でした。

そんな二人がほぼ同時に発症したので、何か共通する要因があるはずだと考えました。

当時考え付いたのは、マンションの「水」でした。二人が共通して摂っているもので、食べ物は考えづらく(実際は添加物も関係していたかもしれません)、これくらいしか思い至りませんでした。

強力な浄水器を購入したり、調理に関してはミネラルウォーターを使うようにしたりもしましたが、症状は増え、悪化していくばかり。

その他にも考え付くすべてを辞めてみたり、取り入れたりしましたが、悪化を止めることはできず、無力感しかなかったです。

最近になってはっとしたことがありました。

両親の初期の症状が、テレビで放映されていた「ワクチン後遺症」と言われている人の症状に酷似していたのです。

その瞬間に思いだしたのは母の「もうお母さんたち、うたないとあかん予防注射は全部うったから!」という自信満々の声と表情でした。

覚えているのは「帯状疱疹」と「C型肝炎」「肺炎球菌」でしたが、他にもあったかもしれません。

発症の前に最短期間で(もちろんかかりつけ医に必要な間隔はあけてもらっていたと思います)すべてうった、と言っていました。

「お医者さんにも『優秀やねえ』って褒めてもらった」と。

尊敬してやまない「お医者様」に褒められてよほど嬉しかったようでした。

もちろん、これが要因だとは言えません。そもそもこれらは今話題のmRNAワクチンではありませんでしたし。

ただ事実として、発症の前に二人に共通していたことがらとして挙げているだけです。(その会話の1か月ほど後に発症しました)

発症後の悪化の明らかな要因としては、お薬の副作用があったと思っています。

当時はそれに思い至りませんでした。というより、症状があまりにも急激に悪化しすぎて、また次々と新しい症状が出てくるもので、私にも余裕がなかったのです。

頼れるのは医者とお薬だけだと思っていました。もちろん、鍼灸やカイロプラクティックなどにも連れていきました。

「レビー小体型認知症」だと思い、その診断、治療で名高い先生の所へ車で3時間ほどかけて連れていったりもしました。

そこにいくまでに、二人それぞれが近所の様々な病院(内科、胃腸科、整形外科、脳神経科)で出された大量のお薬を飲んでいました。

その名医の先生にお薬の整理をしてもらい、かなり減ったのですが、またその後も様々な症状が出てきて、特に母の痛み止めなどはどんどん増えていきました。

四六時中「痛い、痛い」と泣き叫んでおり、パニックになって救急車を呼びます。車で2時間ほどのところにいる私にも昼夜問わず1時間おきくらいに「助けて!痛い!何とかして!」と電話がかかってきます。当時考え付く方法はすべて試したし、からだのすみずみまで検査しても、「どこも悪いところはない」癌も腫瘍も何もないのです。

私も当時、のび太の子育てで悩んでおり、それに加えてこの母からの電話、だんだん動けなくなって無表情になっていく父の姿などで、ノイローゼになっていました。今も電話の着信音でパニックを起こしそうになります。

これも今から思えば大量の薬(特に痛み止め)は体中の血流を悪くし、「痛み」=「血流が足りないというサイン」を一時期は紛らわすことができても、特に血流が落ちやすい場所(母の場合は会陰部でした)に痛みが集中したのだと思います。

当時、ペインクリニック学会や神経科の論文なども読み漁りましたが、薬を否定するものは載せられなかったのか、なかなかこの結論は見当たりませんでした。

今なら減薬一択なのですが、当時は「もっと強い効き目の痛み止めを」と思い込んでいました。恐ろしいことです。

その結果、様々な精神症状が副作用として出てきました。

不眠、幻覚(体中をとげとげの大きな足を持ったムカデが動き回っている)幻視(いるはずのない人物や小動物がリアルに見える)被害妄想(看護師さんから嫌われて嫌がらせを受けている)・・・明るく優しくポジティブでユーモアたっぷりの母は、すっかり別人になってしまいました。

父は身体がだんだん動かなくなるという症状のみで、特にお薬は出されなかった(リハビリのみ)ので、動けなくはなっていきましたが、人格的には最期まで変わりませんでした。ただ、晩年の5年間は、たまに声が出ることはあってもほとんど話せず、まばたきくらいしかできなくなりました。


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posted by みずき at 08:54| Comment(0) | 腸と脳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする